こんにちは!
カウンセラーで整体師の渕脇です!
人を傷つけてはいけない
昨日、クライアントさんと話していて、ちょっとおもしろいなと思ったのでシェアするね。
そのクライアントさんは、若い大学生。
とても正義感が強い好青年。
人を傷つけるようなことはしたくないと思っているし、自分が傷つけられるのも嫌いだし、怖いし、そういう人に対して嫌悪感をもっている。
でも、世の中には、いろんな人間関係の作り方をする人がいて、中には、わざわざ人のことを茶化すようなことを言って、距離を詰めようとする人っているでしょう?
まったく悪気なく。
「ちょっと言いにくいことも、冗談としていえる仲なんだよね~。」
みたいな感じで。
で、昨日の彼はそういう人がとても苦手なのね。
自分が傷つけられているように思うし、そういう人が許せないわけ。
でも、それは、「人を傷つけてはいけない。」というのが「正しい」倫理観であるという認識があるからなんだよね。
つまり、「正しい」から「正しくない人」をジャッジして許せなくなってる。
しかしだ、
世の中には「正解」と言えないようなことが多々あるよね。
倫理観なんかも、まさにそうだよね。
プロセスの違いで結果が違う
例えば、「人を傷つけてはいけない」という倫理観を持っている人がいるとするよね。
その人が、「人傷つけていけない」というのは当たり前の常識であって、それが「正しい」と思っていたとする。
この人は、「まあ、仲良くなるには少しくらいいじってもいいだろう。」と思っている人に対しては、激しく怒るよね。
「許せない」「人としてあり得ない。」なんて言うかもしれない。
ネットでよく見かえる「炎上」なんていうのも、これに似ているよね。
それに対して、
「まあ、考え方はいろいろあるけど、僕は人を傷つけるようなことはしたくないなあ。」と思っている人がいるとするよね。
つまり、一つだけ正解があるという考えではなくて、選択肢はいろいろあるけど、僕はこれを選択するんだ、という態度だよね。
これだとね、「まあ、人をいじって関係を持つやり方もありといえばありだよね。自分はやらないけど。」ということになって、そういうことをしている人を執拗に非難したりしないよね。
好きになったり、あえて友達になろうとはしないかもしれないけど。
結果的には、「人を傷つけるのはよくない」と思っていることは一緒なんだけど、プロセスが違うわけ。
プロセスが違うから反応が違うんだよね。
前者は「正解」だと思っている。(あるいは、教えらえている。)
後者は「自分で選んだ」と思ってる。
前者は受動的態度で、後者は主体的態度。
正解を教える危険性
ここに、正解を教える危険性があると僕は思うんだよね。
正解を教えると、ジャッジするようになるからね。
他人に対しても、自分に対してもね。
いま、学校では「道徳」を教えているよね。
これがとても危険だと思うのは、正解を教えるとそれ以外が許せなくなるから。
あいつは間違ってる!
人としてなってない!
でも、世の中って、そんなに単純か?
白か黒かで分けられるのか?
「正解」を教えるよりも、考えることを教えた方がいいと思うんだよね。
自分の頭で考えて、自分で決めることを教える。
それが、多様性を育むし、柔軟な思考を育むと思うんだ。
これからは、社会の変化がどんどん早くなるよね。
そういう社会で生きていくには、柔軟な思考が必要だと思う。
「道徳」などという曖昧なものを「教える」ということの危険性は、こういうところに出てくるんじゃないのかな。
他人をジャッジする人が増えて、多様性を許容できなくなって、社会が硬直化するような気がする。
メンタル疾患が増える。
経済は低迷する。
違うかなあ。
そんな危険な香りを感じるんだ。
僕の予想が外れてくれればいいけどね。
これを読んでいるあなたはどう思う?