こんにちは!
スタイリッシュエイジングクラブ会長の渕脇です!
統計データでは自分の事は解らない
僕が整体学校で整体を習っているときに、「人間の約90%は右短下肢である。」って習ったんだ。
「右短下肢」というのは、右脚が短いということ。
もっと正確に言うと、右脚のかかとの位置が左脚に比べて高い位置にあるということ。
でも、その情報を知っていたからと言って、目の前にいるクライアントさんが右短下肢であるとは断定できない。
もちろん、確率で言えば、90%の確率で右短下肢なんだけれども、本当に右短下肢かどうかは実際に見てみないとわからない。
だから、毎回確認しなければいけない。
だとすると、「90%は右短下肢である。」という知識は、はたして役に立つ知識なのだろうか?
僕はそんな疑問を持つんだよね。
知っていても、知らなくても、結局は毎回確認することになるわけで、その手間を省くわけにはいかないのだ。
もちろん、これは自分にも当てはまるわけだ。
自分が右短下肢かどうか、実際に見てみないとわからない。
「90%は右短下肢」というのは、真偽のほどはさておき、統計データだよね。
以上の僕の経験からわかることは、統計データというのは、ある母集団のデータであって、個人のデータとは関係が無いということなのだ。
統計データに振り回されるな
統計データにはいろいろなものがある。
日本人の平均寿命とか、平均年収とか、平均身長とか、野菜の必要摂取量などもそうだよね。
それで、そういうものに振り回さている人って、実はけっこう多い。
自分以外の人たちと、自分は違うのではないか。
それが気になって仕方がない人たちがいるんだよね。
でも、さっきも書いたように、統計データとはある母集団のデータであって、個人のデータではないわけだよね。
むしろ、何から何まで平均的という人のほうが珍しいのではないだろうか?
さらに言えば、平均的であることが良いわけでも悪いわけでもないし、平均から離れていることが良いわけでも悪いわけでもない。
統計に良いも悪いもない。
そこに意味はない。
だから、そもそも気にするほうがおかしい。
ふーん、そうなんだ。
くらいの反応でいいわけだ。
自分の事を知ることが大切
母集団のデータよりも、自分の事を知ることが大切なんだよね。
例えば、自分は睡眠時間7時間が一番調子がいいとか、
野菜不足になると肌が荒れるとか、
毎日30分ジョギングすると調子がいいとか。
そういう事を知るほうがよっぽど大切なことなんだ。
ましてや、ほかの誰かと比べることではないんだよね。
自分との対話を続けよう
結局それは、自分をよく知るということだよね。
自分をよく知るということは、自分の心と身体の声をよく聴くということ。
自分との対話を続けるということ。
自分の意識を他人との比較に向けるのではなく、外の尺度に向けるのではなく、内側の尺度、主観的な価値観に向けるということ。
他の人が、自分の周りの人が何をしていようが、それはどうでもいいこと。
自分にとっての快適とは何か。
自分にとっての幸せとは何か。
自分が望んでいるものは何か。
それを意識することが大切なんだ。
答えは自分の中にある
他人の目が気になる。
他人の評価が気になるという人は多い。
僕たちは、子どものころから他人の評価にさらされてきたからだ。
でも、他人は僕の人生を背負ってくれるのだろうか?
僕の健康を保証してくれるのだろうか?
責任を負ってくれるのだろうか?
そんなことは無いよね。
自分の人生を背負っているのは自分だけなんだよ。
それは、変えようがない厳然とそこにある事実だ。
だから、他人の評価なんて気にする必要はない。
他人と同じでなければいけないなんて考えなくていい。
あなたはあなた人生を自由に生きていいんだ。
人の目なんか気にしなくていいんだ。
「普通」なんて意識しなくていいんだ。
人間はみんな違う
人は、誰一人として同じ人はいない。
「普通の人」なんていない。
人の人生のことをとやかく言える人もいない。
人に何を言われても、普通じゃなくても、あなたが快適ならそれでいい。
他人目が怖くなくなった時、
普通であることを求めなくなった時、
あなたの心は解放される。
人間はみんな違うんだから、
あなたのなりたいようになれば良い。
なりたいようになって良いんだと、
そのことを自分に対して「許可」してあげよう!